ひだまりを飲む／タバシャス

1014R

ひだまりを飲む／タバシャス　　

　扉を開けると、普段の殺風景な寮室を埋め尽くすほどの明るい黄色が目に飛び込んできて、シャスポーは思わずドアノブを握ったまま入口に掛けられているルームプレートを確認した。

――――扉を開けたらそこは異世界でした。そんな不思議体験、以前なら鼻で笑い飛ばしていただろうけれど、魔法の世界へ迷い込んだいつぞやの記憶がシャスポーの判断をすこしだけ迷わせる。何度確認しても『Tabatiere』と書かれている綴りがここが現実の世界であることを告げていて、そうとわかると今度は無駄に焦った分、行儀よく並んでいる黄色い花たちへ呑気に水やりをしている部屋の主に胡乱な目を向けるしかなかった。
「一体どうしたんだ、このひまわり」
　プランターの前にしゃがみ込んでいるタバティエールの背にそう問いかけると、彼はその時初めて来訪者に気が付いたという顔で振り返り、「悪い、こっちに来ると思ってなかった」と困ったように笑った。

「こいつらの水やりを終えたらそっちの部屋に行くつもりだったんだよ。菓子もちょうど焼ける頃だったし」
「それは別にいいけど。ノックの音にも気付かないで何をしているかと思えば……」
　タバティエールの了承を得て部屋の中へ入り、所狭しと並べられた花を見上げる。壁を覆うように置かれたひまわりたちはシャスポーの背丈と変わらないほど立派に育っていて、その大きさからは都心に流通するようなものでも、家庭で育てられていたものでもないと知れた。
　どこから持ってきたんだというシャスポーの再度の問いかけに、残りのプランターへ水をかけてやりながら、先日の休暇で他の貴銃士たちとひまわり畑へ行ったのだとタバティエールが言う。曰く、地方の牧場まで貴銃士の何人かで出掛けて、ちょっとした旅行みたいなことをしたらしい。休息が欲しいと口にしつつも、いつだって忙しそうに動き回っているこの男の口から出てきた言葉に半ば呆れながら目の前のひまわりたちを眺める。タバティエールが熱心に世話を焼くその花たちはてっきり祖国の生まれかと思ったのだけれど、どうやら出身は違うようだ。
「アルルのひまわりじゃないんだな」
「ああ、イギリスで生まれ育った種みたいだな。こっちのも結構立派なもんだったぜ？　ぜひ持ち帰ってくれと言うもんだからいくつか貰ってきたんだが、ペンシルヴァニアなんて両手で抱えて嬉しそうにしてたよ」
「だからってお前までこんなに持ち帰ってくること無いだろ」
「はは、そりゃそうだ」
　それほど広くはない部屋に突然現れたひまわり畑へどこか望郷の念を抱きながらも、椅子を引くことすらままならない窮屈さにふたたび呆れを含んだ感情が顔をのぞかせる。これだと僕はどこに座ればいいんだ。一度自室へ戻ろうかと部屋を見渡していると、ジョウロ代わりの小瓶を片付けに行ったタバティエールが壁際へ避けていた椅子をテーブルの前にふたつ並べ始めたので、おとなしくそこへ腰掛けることにした。
「シャスポーはアルルに行ったことはあるんだっけか」
　来客を座るだけ座らせて自身は引き続き片付けでもしているのか、手元で様々な音を奏でながらタバティエールが南の土地の名を口にする。途中からカチャカチャと金物の音が聞こえ始めて、気が付けばシャスポーの前にはティーセットが並べられていた。
「いや……どうかな。それほどはっきりとした記憶があるわけじゃないから。でも前のマスターがよく話してくれたことは覚えてる。だからかはわからないけど、なんだか行ったことがあるような気がしてくるよ」
「それじゃあ今度、南仏のビーチにでも行くか？　あそこは温暖な気候だし、たまにはそういう湿気のすくない空気を浴びるのも良いだろ」
「行かない。海だろう？　行ったとしても濡れるのは御免だから、ひとりで泳ぎなよ」
「それは勿体ねぇなあ」
　勿体なくはない。僕は湿気に弱いのだから、普通に考えればわかるだろう――――そう返す前に頬のあたりでリップ音が鳴る。お願いの意味が込められたそのビズのような戯れに、まあ一緒に旅行するくらいならいいかもねと付け加えてやると、今度は唇同士が触れた。調子が良すぎる。
　むせかえるひまわりの香りが心を躍らせるのか、タバティエールは普段よりも幾分か機嫌が良さそうに見えた。鍋が沸騰したタイミングで焼き菓子とティーポットをテーブルに並べ、シャスポーのための砂糖を添える。そのいつもの動作のなかに漂うかすかな花の香りに気が付いて、茶葉を蒸らす間シャスポーが不思議そうにティーポットを眺めていると、今日の紅茶は特別にブレンドしたものだとタバティエールが教えてくれた。
「せっかくだからサンフラワーを入れてみたんだ。リラックス効果があるんだと。ちなみにそのクッキーにもひまわりが入ってて、こっちは種から作るんだが、栄養価も高いからもしかしたら携帯食にも向いてるかもしれないな」
「……まさかとは思うけど、あのひまわりは食用のために貰ってきたのか？」
「まさか。このハーブは別に貰ったんだ。一応遠慮はしたんだが、……理由はわからないが、どうやら俺のことを気に入ってくれたみたいでな」
　そのいつもの物言いから、なんとなく状況を察する。タバティエールの人当たりのよい柔和な態度はその場にいるひとたちを和ませることが多い。きっとまたそれっぽいことを言って喜ばせて、相変わらず当の本人は無自覚のままなのだろう。先日シャルルヴィル先輩にマカロンを作ってプレゼントしたと言っていたけれど、一度マカロン作りを経験した身からすると、その調理の時間をこの多忙な男がどう捻出しているのか不思議でしょうがない。しょっちゅう僕と居るのに、一体いつそんな時間があるというのか。
「これだけあるんだから、種の収穫量も凄そうだよなあ。使い道もたくさんあるらしいし……そうだ、ドライゼにやるのもいいかもな？　たしか種から油が作れるとか言っていたような――――」
「……プロイセンの銃なんかにやるくらいなら、僕にクッキーをたくさん作りなよ」
　考え事をしていたせいで、思わずぶっきら棒な言い方になってしまったような気がする。
　そのことに気が付いて隣に座っている男の顔を見れば、頬を抓ってやりたくなるような締まりのない顔をしていたので、知らないふりをして紅茶を味わうことにした。胸のあたりがじんわりとあたたまる。一応、礼を伝えようと改めてタバティエールのほうを向くと、変わらずじいとこちらを見ていた男がやっぱりどこか愉しげな顔をしていたので、今度こそ頬を抓ってやった。

「――――それで？」
　赤くなった頬を擦りながら、シャスポーに何を問われたのか理解していない瞳が二度ほど瞬く。
　これまでの説明で、この部屋が植物園へと生まれ変わった経緯はわかった。その状況を、なんだかタバティエールが楽しんでいることもわかった。けれどわからないことが、ひとつだけある。
「こんなにもたくさんのひまわりを持ち込んで、僕の部屋にも来ないで、熱心に世話を焼いてる理由だよ。温室に置いたっていいのに、どうしてわざわざ」
　シャスポーがずっと心に抱いていた疑問を口にすると、タバティエールはすこしだけ目を丸くして、そしてどこか照れくさそうにしながら、壁際のひまわりたちをひととおり眺めてシャスポーの顔を見る。そうだなぁ。眉を下げて、許しを請う眼差しでつぶやく。

「お前に似合うと思ったんだよ。何となくな」

　……何となくで済むレベルじゃないだろ。
　そんな文句が喉元まで出かかったけれど、理由が僕なら、まあ、いいか。そう結論付けて、シャスポーはまたひとくち温かい紅茶を飲み込むのだった。タバティエールと海へ行った帰りに、ひまわり畑へ寄り道するのも良いかもしれないな。そんな夏の予定を思い描きながら。

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