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Reus
Hetalia
雨が降ったので/仏英
一週間のうち、五日も仕事に費やせばそれだけ庭の落ち葉は山を高くしていく。
ほんとうなら今日、無事にその週の労働を終えた土曜の昼下がりに自分は、雨の空気を肺いっぱいに取り込みながら、夕刻にふたたび訪れるであろう曇天がこの庭の土を濡らす前に、ある程度の洗濯物を干し、ある程度の落ち葉を取り除き、リース作りのための枝と木の実を拾うつもりだった。
予定が変わったのは、曇天が顔を覗かせるよりも先に、隣国の腐れ縁が玄関の呼び鈴を鳴らしたからだ。
「雨天中止の観戦チケットの会場がイギリスだったのを見た瞬間から、なーんか嫌な予感がするとは思ってたんだよなー。どうして買っちゃったんだか。まあ観たいって言われたからだけどさー、止めとけって言えばよかったぜ」
家主の了承もそこそこに押し入るように家に上がり込んできた男の、舞台役者のように大袈裟な落胆表現に舌打ちをひとつして、アーサーは早くも招き入れたことを後悔した。
「それ俺んち関係ねーじゃねえか。いちゃもんつけんなよ」
「嗚呼、パリなら今日は晴れだったというのに。海越えただけでこーんなに違うんだもんなあ」
「だからうるせえな、今は止んでるっつの」
「さっき歩いてるとき小路で泥が跳ねたからほら、靴も汚れたし。何でおまえんちの前って舗装しねえの?」
「……なるほど。その靴なら十分ワックスで磨かれている気がするが、さらに磨いて欲しいということだな? 理解が遅くなってすまない」
フランシスの顔面への一発は後々が面倒くさいので(「お兄さんのこの美貌は世界の宝よ?!」と主張するこの男は、五十年も昔の喧嘩のことですら根に持っていて、そしてそれがまるでつい最近のことであるかのようにねちねちと話してくる)、足でも踏んでやろうかと振り向けば、アーサーの臨戦態勢を当然のように察知したフランシスはくるりと踊りながら間合いを取った。
そして手に持った紙切れをぴらぴらと靡かせて、「だからー、暇を潰すためにお前ん家に来たの。どうせ家に居たろ?」と、これまた無礼の上書きをしてくる。
アーサーはいま明確に腹が立ったので、ソファに置いてあるクッションを顔面目掛けてぶん投げてやった。憎きフランス男がそうだと主張する、世界の宝に見事クリーンヒットする。ざまーみろ。最短距離だからと左手で掴んだクッションだったが、経験値を積めば利き手ではなくとも十分にコントロールは利くのだ。
きっとこれも五十年先までいつものように恨まれるのだろうが、アーサーの腹が立ったからという公然たる理由があるので気にしない。この髭が悪いのであって、アーサーに非は無い。
お前ねえ! と喚くフランシスの手から滑り落ちたチケットを拾い上げると、そこには確かに今日決勝が行われるはずの試合の名前が記されていた。しかもペアチケットである。開始予定時刻は今から数時間ほど後ではあるが、それにしては今此処にコイツが居るのはおかしい。
「相手、どうしたんだよ」
「ん? ああ、雨天中止だから明け方に雨の時点で無しって話だったんだよ。会場がイギリスだったからなー。念には念を入れておいて正解だったぜ」
「おっとここに丁度よく花瓶が」
「待て待て、陶器は投げるな痛いから!」
サイドテーブルに置かれていた白い花瓶に伸ばそうとした手を咄嗟に掴まれる。いつの間に空いていた距離を詰められたのだろうかと、その無駄に長い脚を恨めしそうに眺め、そのまま視線を上げようとしたら途中でちゅうと唇を食まれた。いや、どちらかというと塞がれた。文句を言わせないためだ。
女に愛を囁くのと同じくちびるで平気で男の口も吸うのだから、こいつはいっぺん痛い目を見た方がいいとアーサーは常々思っているのだけれど、散々その頬を叩かれ赤く腫れようともヒールで蹴られようとも、フランシスはそう生きることをやめないのだろう。それが彼を愛の国たらしめるのであり、まああれだ、回遊魚みたいなものなのかもしれない。止まってしまっては死ぬのだ、きっと。
なのでアーサーに出来ることと言えばまず、調子に乗ってこちらの衣服を乱し始め、呆れて開いていた口の隙間から舌を入れてこようとしている男の腹に力いっぱい拳をお見舞いすることだった。
「ッて―――! もう、本当に容赦ねえな!」
「……お前、何かつけてるか? くちに」
「お兄さんの話を聞いて! ……って、くち?」
離れていった唇が、唾液ともちがうぬるりとしたものを残していく。舐めとってみるとほのかに薬品の味がした。女が塗るグロスの甘ったるい香りが鼻先を掠めた気がしたのだが、それともまた違うようだ。
「リップバームならつけてたけど。ついちゃった? 何だかえっちだね」
「うるせえよ。いつもこんなんつけてたか?」
「つけてますー! いっつもぷるぷるでしょ、お兄さんの唇は」
それはまあ否定しないのだが、否定しない根拠を自身が持ち得てしまっていることに何だか悔しさを感じて、アーサーはそのべたついた唇を手の甲で拭った。
フランシスはそれを見てやっぱりマナーがなってないなんて怒っていたけれど、残り香なら窓を開けてしまえばさっさと消えるのに、こんなものを残すなんてタチがわるいんだよ、お前は。
◇
フランシスが遥々海峡を越えてこの地を訪れたとしても、ふたりがすることは何の事はない、ただ日常を過ごすだけだった。
休日をフルで使ってしまっては家事が回らない。だから隣国が来ていようが構わずアーサーは洗濯機を動かすし、溜まっていた郵便物の整理をする。
その間フランシスはソファに寝ながら地域新聞を広げたり、ラジオを流しながら料理の下ごしらえをしたりして、アーサーの庭いじりの区切りがいいタイミングを見計らってお昼にしようと声を掛けてくる。
漂ってくるコンソメの香りに心が浮き立って、返事をするみたいにお腹がくぅと鳴るので、フランシスに聞かれていないであろうその距離にアーサーはいつも安堵するのだった。
以前、週末をイギリスで過ごしてしまうフランシスに家事をどうしてるのか聞いたことがあるのだが、洗濯物は乾燥機付きのものにぶち込むかクリーニングに出すかで済ましていると言っていたので、おそらく他の家事も似たような感じなのだろう。布地の具合によって手洗いしたりするアーサーと違って、楽ができるのなら楽をするのがフランシスだ。
「あー、やっぱり降ってきちまったじゃねえか」
フランシスお手製のビーンズがごろごろ入った温かいスープをすくっている途中で、雨粒が窓を叩き始めた。この髭の来客対応がなければもうすこし早くから風を当てられただろうに、もしもまだシーツが湿っていたとしたら後で詫びとしてプディングを作らせようと心に決める。出しっぱなしの洗濯物を取り込もうと庭に向かえば、続いてフランシスも外に出てきたのでアーサーは驚いた。
何をしているのかというアーサーの視線に、フランシスは片目を瞑って笑顔をみせる。
「俺のせいにされたら嫌だからね。ふたりでやれば早いでしょ」
どう取り繕おうともこの髭のせいなのだが、顔で誤魔化せると思っているコイツは心底腹立たしい。
それが正しいにしろそうでないにしろ、フランシスの言う通りにするのは何だか癪だったので、アーサーは抱えていたシーツを思い切り投げつけてやった。頭からすっぽりとシーツを被ったフランシスが慌てて両手足でもがくのをべははと笑いながら、アーサーはさらにバスタオルを二枚と、キッチンクロスをまとめて上から重ねる。足先がジーンズの、不格好で立派なゴーストの完成だ。
残りの衣類を抱えて室内に戻る際、段差になっているバルコニー脇の窓の前でもたついているゴーストの背中を押したら、そのまま腕を掴まれてふたりでダイニングの床になだれ込むハメになった。痛い。もっともアーサーはゴーストの上に倒れたので、痛かったのは受け身を取ろうとして打ちつけた肘だけだったけれど、下敷きになったフランシスはもっとダメージを受けたに違いない。蛙が潰れたような声がシーツの下から聞こえてきたから、たぶんそれなりに。
しばらく眺めているとずるりとシーツがめくれ、すこし涙目のゴーストが顔を出した。あまりにも情けない顔が現れたから、堪えきれず吹き出してしまう。
「悪いことしてるの、だーれだ?」
「お前だろ。せっかく干したのにしわくちゃにすんなよそれ」
「はいはい。俺が使えるように干してくれたんだもんね。だったら遊ぶなよ」
「お、お前のためなんかじゃっ! んむ、」
女に愛を囁くのと同じくちびるが、またアーサーの口を塞ぐ。拭ったはずの唇が、またべたべたになる。
フランシスがアーサーの家を訪れようとも、アーサーは日常を過ごすだけだった。いつの間にかその日常にフランシスが組み込まれていたけれども、それを認めた訳じゃなかった。
だからこうして、来客のためにわずかな時間を見つけてシーツを干すのも、今週も来るだろうかと家に居るのも、アーサーはただ日常を過ごしているだけであって、それは残り香みたいに不確かなものであってほしくて、こんな、くちびるに残されるリップバームみたいなものは、許したくないのに。
「んん、しっ……つ、こい!」
「……本当はさあ」
「ぁあ?」
「雨天中止じゃないんだよね、今日の」
そう言って眉を下げた男が口の端にキスをしてきたので、アーサーは折れるなら今しかない、と思った。
雨天中止じゃないなんて、さっきチケットの紙面を見たときから知っていた。この男が最後の最後に詰めが甘くてヘタレで、どうしようもないなんてことは千年も前から知っていた。
――やるなら最後までやり通せよ、ほんとうに。
男のくちびるに残るリップバームのべたつきを自ら舐めとって、その香りが鼻腔をくすぐって、驚きで目が見開かれたフランシスのうつくしい顔を間近で見たとき、また一週間が始まるのだなとアーサーは思うのだった。
きっとシーツも何もかも洗い直しになるけれど、そんな日常も、まあ、悪くはないのかもしれない。
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一週間のうち、五日も仕事に費やせばそれだけ庭の落ち葉は山を高くしていく。
ほんとうなら今日、無事にその週の労働を終えた土曜の昼下がりに自分は、雨の空気を肺いっぱいに取り込みながら、夕刻にふたたび訪れるであろう曇天がこの庭の土を濡らす前に、ある程度の洗濯物を干し、ある程度の落ち葉を取り除き、リース作りのための枝と木の実を拾うつもりだった。
予定が変わったのは、曇天が顔を覗かせるよりも先に、隣国の腐れ縁が玄関の呼び鈴を鳴らしたからだ。
「雨天中止の観戦チケットの会場がイギリスだったのを見た瞬間から、なーんか嫌な予感がするとは思ってたんだよなー。どうして買っちゃったんだか。まあ観たいって言われたからだけどさー、止めとけって言えばよかったぜ」
家主の了承もそこそこに押し入るように家に上がり込んできた男の、舞台役者のように大袈裟な落胆表現に舌打ちをひとつして、アーサーは早くも招き入れたことを後悔した。
「それ俺んち関係ねーじゃねえか。いちゃもんつけんなよ」
「嗚呼、パリなら今日は晴れだったというのに。海越えただけでこーんなに違うんだもんなあ」
「だからうるせえな、今は止んでるっつの」
「さっき歩いてるとき小路で泥が跳ねたからほら、靴も汚れたし。何でおまえんちの前って舗装しねえの?」
「……なるほど。その靴なら十分ワックスで磨かれている気がするが、さらに磨いて欲しいということだな? 理解が遅くなってすまない」
フランシスの顔面への一発は後々が面倒くさいので(「お兄さんのこの美貌は世界の宝よ?!」と主張するこの男は、五十年も昔の喧嘩のことですら根に持っていて、そしてそれがまるでつい最近のことであるかのようにねちねちと話してくる)、足でも踏んでやろうかと振り向けば、アーサーの臨戦態勢を当然のように察知したフランシスはくるりと踊りながら間合いを取った。
そして手に持った紙切れをぴらぴらと靡かせて、「だからー、暇を潰すためにお前ん家に来たの。どうせ家に居たろ?」と、これまた無礼の上書きをしてくる。
アーサーはいま明確に腹が立ったので、ソファに置いてあるクッションを顔面目掛けてぶん投げてやった。憎きフランス男がそうだと主張する、世界の宝に見事クリーンヒットする。ざまーみろ。最短距離だからと左手で掴んだクッションだったが、経験値を積めば利き手ではなくとも十分にコントロールは利くのだ。
きっとこれも五十年先までいつものように恨まれるのだろうが、アーサーの腹が立ったからという公然たる理由があるので気にしない。この髭が悪いのであって、アーサーに非は無い。
お前ねえ! と喚くフランシスの手から滑り落ちたチケットを拾い上げると、そこには確かに今日決勝が行われるはずの試合の名前が記されていた。しかもペアチケットである。開始予定時刻は今から数時間ほど後ではあるが、それにしては今此処にコイツが居るのはおかしい。
「相手、どうしたんだよ」
「ん? ああ、雨天中止だから明け方に雨の時点で無しって話だったんだよ。会場がイギリスだったからなー。念には念を入れておいて正解だったぜ」
「おっとここに丁度よく花瓶が」
「待て待て、陶器は投げるな痛いから!」
サイドテーブルに置かれていた白い花瓶に伸ばそうとした手を咄嗟に掴まれる。いつの間に空いていた距離を詰められたのだろうかと、その無駄に長い脚を恨めしそうに眺め、そのまま視線を上げようとしたら途中でちゅうと唇を食まれた。いや、どちらかというと塞がれた。文句を言わせないためだ。
女に愛を囁くのと同じくちびるで平気で男の口も吸うのだから、こいつはいっぺん痛い目を見た方がいいとアーサーは常々思っているのだけれど、散々その頬を叩かれ赤く腫れようともヒールで蹴られようとも、フランシスはそう生きることをやめないのだろう。それが彼を愛の国たらしめるのであり、まああれだ、回遊魚みたいなものなのかもしれない。止まってしまっては死ぬのだ、きっと。
なのでアーサーに出来ることと言えばまず、調子に乗ってこちらの衣服を乱し始め、呆れて開いていた口の隙間から舌を入れてこようとしている男の腹に力いっぱい拳をお見舞いすることだった。
「ッて―――! もう、本当に容赦ねえな!」
「……お前、何かつけてるか? くちに」
「お兄さんの話を聞いて! ……って、くち?」
離れていった唇が、唾液ともちがうぬるりとしたものを残していく。舐めとってみるとほのかに薬品の味がした。女が塗るグロスの甘ったるい香りが鼻先を掠めた気がしたのだが、それともまた違うようだ。
「リップバームならつけてたけど。ついちゃった? 何だかえっちだね」
「うるせえよ。いつもこんなんつけてたか?」
「つけてますー! いっつもぷるぷるでしょ、お兄さんの唇は」
それはまあ否定しないのだが、否定しない根拠を自身が持ち得てしまっていることに何だか悔しさを感じて、アーサーはそのべたついた唇を手の甲で拭った。
フランシスはそれを見てやっぱりマナーがなってないなんて怒っていたけれど、残り香なら窓を開けてしまえばさっさと消えるのに、こんなものを残すなんてタチがわるいんだよ、お前は。
◇
フランシスが遥々海峡を越えてこの地を訪れたとしても、ふたりがすることは何の事はない、ただ日常を過ごすだけだった。
休日をフルで使ってしまっては家事が回らない。だから隣国が来ていようが構わずアーサーは洗濯機を動かすし、溜まっていた郵便物の整理をする。
その間フランシスはソファに寝ながら地域新聞を広げたり、ラジオを流しながら料理の下ごしらえをしたりして、アーサーの庭いじりの区切りがいいタイミングを見計らってお昼にしようと声を掛けてくる。
漂ってくるコンソメの香りに心が浮き立って、返事をするみたいにお腹がくぅと鳴るので、フランシスに聞かれていないであろうその距離にアーサーはいつも安堵するのだった。
以前、週末をイギリスで過ごしてしまうフランシスに家事をどうしてるのか聞いたことがあるのだが、洗濯物は乾燥機付きのものにぶち込むかクリーニングに出すかで済ましていると言っていたので、おそらく他の家事も似たような感じなのだろう。布地の具合によって手洗いしたりするアーサーと違って、楽ができるのなら楽をするのがフランシスだ。
「あー、やっぱり降ってきちまったじゃねえか」
フランシスお手製のビーンズがごろごろ入った温かいスープをすくっている途中で、雨粒が窓を叩き始めた。この髭の来客対応がなければもうすこし早くから風を当てられただろうに、もしもまだシーツが湿っていたとしたら後で詫びとしてプディングを作らせようと心に決める。出しっぱなしの洗濯物を取り込もうと庭に向かえば、続いてフランシスも外に出てきたのでアーサーは驚いた。
何をしているのかというアーサーの視線に、フランシスは片目を瞑って笑顔をみせる。
「俺のせいにされたら嫌だからね。ふたりでやれば早いでしょ」
どう取り繕おうともこの髭のせいなのだが、顔で誤魔化せると思っているコイツは心底腹立たしい。
それが正しいにしろそうでないにしろ、フランシスの言う通りにするのは何だか癪だったので、アーサーは抱えていたシーツを思い切り投げつけてやった。頭からすっぽりとシーツを被ったフランシスが慌てて両手足でもがくのをべははと笑いながら、アーサーはさらにバスタオルを二枚と、キッチンクロスをまとめて上から重ねる。足先がジーンズの、不格好で立派なゴーストの完成だ。
残りの衣類を抱えて室内に戻る際、段差になっているバルコニー脇の窓の前でもたついているゴーストの背中を押したら、そのまま腕を掴まれてふたりでダイニングの床になだれ込むハメになった。痛い。もっともアーサーはゴーストの上に倒れたので、痛かったのは受け身を取ろうとして打ちつけた肘だけだったけれど、下敷きになったフランシスはもっとダメージを受けたに違いない。蛙が潰れたような声がシーツの下から聞こえてきたから、たぶんそれなりに。
しばらく眺めているとずるりとシーツがめくれ、すこし涙目のゴーストが顔を出した。あまりにも情けない顔が現れたから、堪えきれず吹き出してしまう。
「悪いことしてるの、だーれだ?」
「お前だろ。せっかく干したのにしわくちゃにすんなよそれ」
「はいはい。俺が使えるように干してくれたんだもんね。だったら遊ぶなよ」
「お、お前のためなんかじゃっ! んむ、」
女に愛を囁くのと同じくちびるが、またアーサーの口を塞ぐ。拭ったはずの唇が、またべたべたになる。
フランシスがアーサーの家を訪れようとも、アーサーは日常を過ごすだけだった。いつの間にかその日常にフランシスが組み込まれていたけれども、それを認めた訳じゃなかった。
だからこうして、来客のためにわずかな時間を見つけてシーツを干すのも、今週も来るだろうかと家に居るのも、アーサーはただ日常を過ごしているだけであって、それは残り香みたいに不確かなものであってほしくて、こんな、くちびるに残されるリップバームみたいなものは、許したくないのに。
「んん、しっ……つ、こい!」
「……本当はさあ」
「ぁあ?」
「雨天中止じゃないんだよね、今日の」
そう言って眉を下げた男が口の端にキスをしてきたので、アーサーは折れるなら今しかない、と思った。
雨天中止じゃないなんて、さっきチケットの紙面を見たときから知っていた。この男が最後の最後に詰めが甘くてヘタレで、どうしようもないなんてことは千年も前から知っていた。
――やるなら最後までやり通せよ、ほんとうに。
男のくちびるに残るリップバームのべたつきを自ら舐めとって、その香りが鼻腔をくすぐって、驚きで目が見開かれたフランシスのうつくしい顔を間近で見たとき、また一週間が始まるのだなとアーサーは思うのだった。
きっとシーツも何もかも洗い直しになるけれど、そんな日常も、まあ、悪くはないのかもしれない。