呼吸がとまる日／白快

DCMK

呼吸がとまる日／白快

　屋上へ通じる重厚な扉を押し開けると、こんな寒い夜にまでご苦労様、と労りの言葉が聞こえてきた。ええまったく、お互い様でと嫌味を返した相手は、屋上のフェンスのうえに器用にも両の足をつけ、不敵に笑んだまま佇んでいる。
満月の夜に会う白い怪盗との関係とは、そんなものだ。白馬探は馴染んだやりとりを思い返しながら、首筋を掠めていく冬の冷たさも忘れ、視線を返した。
「いつも思うんですが、その格好は寒くないんですか」
「怪盗キッド様スペシャルスーツですよ。夜風に吹かれて震える様なんざ、私のファンが嘆くのでね」
「本当、それではまるで産まれたばかりの仔山羊だ」
「言ってろ」
　人間が発光するわけがないのに、青白く光っているように見える。
ぼんやりとそんなことを思いながら、まるでまぶしいものを見ているかのように、白馬はうっすらと目を細めた。急に夜のなかに飛び出して、視界も馴れぬまま目にとびこんでくる白は、ただの毒だ。「貴方は今夜もその白を身にまとうんですね」「なにせ、大胆不敵の大怪盗様だからな」
ああ、そうでしたね。白馬は吐息まじりに言う。
見上げた先の怪盗は、消えたかと思えばぽんっと現れて、それは神出鬼没、まるでマジックだと人々は謳う。今夜の彼もまたそうであった。鮮やかな脱出劇を改めて脳裏に描いて、云われるに然るべきだと白馬も思う。
ただ、ひとつだけ。
きっと気付いたのは、その素顔を知っている白馬だけだ。
「ところで、今夜は随分と顔色が悪いようですが？」
　暗に大丈夫かと問えば、彼はわずかに見えていた疲労感など仕舞い隠して、どこか嬉しそうに、どこか好戦的にも思える表情を浮かべた。
「よく言う……。素敵なステージを用意してくださって感謝していますよ、白馬探偵？」
「プラネタリウムとアクアリウム、素敵な組み合わせだったろう？」
「ええ、それはそれはとても。吐き気がするくらいに。」
　キッドが狙っていた宝石は、小さなプラネタリウムの壁一面が、ぐるりと水槽で囲まれている部屋の中心に置かれていた。もっとも、元々ここのオーナーが趣味で所有していた部屋で、わざわざ今回のために用意されたものでもない。白馬がしたのは、「この部屋が一番良いのではないでしょうか」という、いろいろ試算した結果の確率的な話だった。
　黒羽快斗が魚嫌いであるということは、特に計算にふくんでいない。

「あれは星空を泳ぐようできれいだっただろう。幻想的でとても素晴らしかった」
　宇宙で泳ぐ魚は息ができるのだろうか。ふと、推測もつかないようなことを考える。青色しか届かない世界のなか、水面を見上げて焦がれた宙は、はたして彼らに優しいのかどうか。
　魚は、空と海の境にあるものを、まだ知らないでいる。
「白馬探偵は随分とロマンチストなようで」
「ええ、まあ。……貴方も精々、溺れないよう努めるといい」
「……、あれはオレか。」
「そうでしょう？　決められた時間、決められた場所で息をする、貴方と似たようなものだ」
「オマエは？」
「この場合、僕はあくまで、観賞している側の人間にすぎないので」
「どうだか」
　まあ、それなら手出しは無用、私は勝手に帰らせて頂きましょうか。
　怪盗は屋上のフェンスをするりと飛び越えた。まるで水槽だな。白馬はそう思った。隔たりの向こうですいすいと星空を縫って、白い魚が泳いでいる。白馬は今日に限っては、それをただ、見つめていた。
今夜も、彼がわずかに滲ませた素顔に気付かない振りをし続ける。
「魚は地に堕ちることはなくても、溺れることはあるんですよ」
　空と海の境にあるものを魚が目にしたとき、そこに訪れるのは鼓動であればいい。
白馬はひらひらと降りてくるメッセージカードと、添えられた一輪の薔薇を見てそれから、ゆっくりと無線機に声をかけた。
『――警部、今夜もしてやられましたね。』

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